一人旅13回目(18県目) 兵庫 生石(おうしこ)神社

愛媛県を早々と切り上げて向かった場所。
高速道路を使わないので、暑さに茹だる渋滞にorz

日が暮れたら意味がない!

そんな焦りに焦がれ、到着したのは17:30

暗い厚い雲に覆われた中、無事着きました

兵庫県 生石(おうしこ)神社

(写真は分社)

兵庫県リストに入っていて忘れたのではなく、
全く眼中になかったのですが

鹿児島の心残り 天の逆鉾と語られる

日本三奇が一つ

日本の下を目指す時、避けては通れない兵庫

何時でも通れるからと思っていたら、通るのは夜中ばかり!

毎度毎度兵庫を通過する度、思い出すのも癪なので解消したかった

天の逆鉾・・・嗚呼

上は後で

霊石ってのも神秘的な物だと思いますが

目指すものはただ一つ

分かりますか?


分かりません!

何を見ているのか分からないと思いますが、
上から見下ろすと全貌が見えます
それはまた後日。

左回りをしながら、Wikiコチラのページから説明文を拝借。

石の宝殿と呼ばれる巨大な石造物が神体

石の宝殿は、横6.4m、高さ5.7m、
奥行7.2mの巨大な石造物で、
水面に浮かんでいるように
見えることから「浮石」とも呼ばれる。


誰が何の目的で
どのように作ったかはわかっていない。

播磨国風土記』の大国里の条には
「原の南に作り石がある。家のような形をし、
 長さ二丈、広さ一丈五尺、高さも同様で、名前を大石と言う。
 伝承では、聖徳太子の時代に物部守屋
 作った石とされている。」という意味の記述がある。

しかし聖徳太子が摂政であった時代には物部守屋はすでに死亡しており、
矛盾をはらむ記述ではあるが、8世紀初期には6〜7世紀頃に
人の手で造られたと考えられていたことになる

自然に出来たとは思えない造形

すると石の宝殿は8世紀以前からあったことになるが、

播州石宝殿略縁起』では
「神代の昔、大穴牟遅と少毘古那が
 国土経営のため出雲からこの地に至り、石の宮殿を造営しようとして
 一夜のうちに二丈六尺の石の宝殿を作ったが、
 当地の阿賀の神の反乱を受け、それを鎮圧する間に夜が明けてしまい、
 宮殿は横倒しのまま起こすことができなかった。
 二神は、宮殿が未完成でもここに鎮まり国土を守ることを誓った」

という内容が記されており、この時期には石の宝殿は

人の手によるものではないとする伝承
生まれている。

ではどうやって、何のために造られたのか

そこが三大奇に数えられる所以。

コチラのサイトでは、
石の宝殿の謎について興味深い事が記されています。

以下、文章を拝借。

重量が500トンもあろうかといわれるこの巨大な石造物は、

切り出して加工しもたのではなく
岩山を直に彫ったもので

三方は削られた元の岩山によって
囲まれた形になっている

制作に従事した石工には、これを遠くに運搬することが
不可能なことは分かっていたはずです。
それにもかかわらず、巨石の底部は岩盤から
切り離なすように四方から深く削られています。

現在の拝殿の位置からいえば、
前面は長方形の平面で、背後に屋根形の突出部があります。
だから、少しだけ岩盤につながっている
底部を切り離し、拝殿側に起こせば

家形になります

石の宝殿の構造には数学的特徴があり、
ほとんど60°になるらしい。詳しくはサイト様に図がありますのでそちらを。

以上!
夫婦蛙? 向き合って愛らしい

高い岸壁に囲まれた部屋に500トンの巨大な石。
人の手にしろ神の手にしろ、奇妙な話です

目の前に立って一言


   見えねぇ