20回目(26県目) 静岡 掛川城(雲霧城)4

引き続き、掛川城御殿

刀はありませんでした。残念

侍の待機部屋・・・だったような?

登れない秘密の階段


刀はありませんでしたが。
火縄銃、管打ち式銃


・・・コメントに困る。


何に使われるのか分かりませんが、とても綺麗な物


様々な紋が彫られていました

刀はありませんでしたが、

一部どうしても槍じゃないのが。


この写真だけじゃ、槍なのか棒なのか

お尻の形も多種多様

小川の辺 撮影場所・・・らすぃ

存じ上げておりませんが。


芸能人のサイン。


掛川城御殿 最後のイベント

大名行列


大名行列


大名行列は本来、戦時の行軍に準じた臨戦的・軍事的な
移動形態(帯刀する刀の長さも通常の長さより大きなものでもよいなど)であったが、

江戸時代の太平が続くと次第に大名の権威と格式を
誇示するための政治的なものに変容した。
随員には騎馬・徒歩の武士の他、鉄砲、弓などの
足軽や道具箱や槍持ちなどの中間(人足)、
草履取や医師などの大名身辺に仕える者たちが連なる。

参勤交代などの幕府の公用のために行う大名行列
幕府によって人数が定められており、1万石の小大名でも
50人から100人を引き連れることを義務付けられ、
102万石の加賀藩では最盛期に4,000人に及んだ。


これは、大名行列のために出費を強いることで諸大名が
経済的実力を持つことを抑制しようとする政治的意図による。
そして諸大名は、ある意味この幕府の企みに乗せられた
格好になり、自らの体面を守り、藩の権勢を誇示するため、
幕府に義務付けられた以上の供を引き連れ、行列の服装も
贅を凝らしたものとなる傾向があった。


大名行列は、遠くから見ただけでもどこの家中かわかるよう、
毛槍や馬印などに特徴があり、それらは江戸時代を通じて
発行された『武鑑』に記され、一般でも判別できた。
参勤交代の行列は、出立の際や宿場町に入る時、
国入りの際などには、毛槍を持たせた中間(ちゅうげん)たちに
独特の所作をとらせ、人々を注目させた。
これが各地の祭礼行列、神幸行列などに取り入れられ、
民俗芸能の奴振りとして全国に残っている。

このように、長大かつ華美に走った大名行列は、
大名家にとっては財政的な負担となり、次第に大名の
財政を圧迫していった。むしろ幕府への不満を増大させ、
幕末の討幕運動の遠因となった。

行列の速度については、往来を通り過ぎる時はゆっくりと
進むが、街道などそれ以外の場所を移動する際は
やや早い速度で移動していた。


旅人が12から13日程度かかる道のりであれば、
それより2日程度早くたどり着く速さであった。


これは、往来では大名の権威と格式を誇示するため
ゆっくりと移動し、それ以外は経費節約のため
出来るだけ行程を短縮する狙いがあったものと考えられている。

これの極端な例として、寛永20年(1643)に前田家四代目の
光高が約120里(480km)の行程で、順調に行けば12泊13日で
たどり着ける道のりを6泊7日で移動したという記録がある。

大名行列の前を横切ったり、列を乱す様な行為は無礼な行いとされ、
場合によってはその場で「無礼討ち」をすることも
認められていたが(幕末に発生した生麦事件が有名)、

特例として、飛脚や出産の取上げに向かっている
産婆(現在の助産師)は行列を乱さない限りにおいて、
前を横切る事を許されていた。


↑ この列 大好き ↓


食べ物を運ぶのに、名前が「はかい」


獅子舞かんからまち

以上、掛川城でした

お城の隣に、竹の丸っていう文化遺産がありますが

有料ですので、まぁさて置いて。